「世界の終わり」というバンドをご存じだろうか?わたしが、この変わったバンド名を聞いて2年くらいになるだろうか。バンド名だけでなく、独特の世界観を持ち、独特のサウンドを志向しており、今若者に絶大な支持を受けている。

下の詩は彼らの「銀河街の悪夢」という歌の歌詞である。彼らの心持ちは、ある意味非生産的にも見え、教育に携わる者としては、このようにあらわされる感性からの成長を導くようにと思う部分と、逆にこの感性を理解したうえで子供たちに当たっていかなければならないと自らを戒める気持ちを促されもする。

ただ、このフレーズの中に隠された、まぶしいばかりに育った[大人]という人種が、悩みと不安の中にいる子供たちに対して、その心情にはお構いなしに、夢とか希望とかを押し付ける姿が見え隠れしないだろうか。まあ、いずれにしても少し歌詞に触れていただこう。

 

銀河街の悪夢
日に住みついてる幻覚の名前は
皆さんご存知「希望」というアレです
未来なんて来なけりゃ皆とのこの差も
これ以上は開くことは無いのにさ

だって咋日も一昨日も変わろうとしてたけど
今日も僕は変われないまま今日がまた終わってく

明日また起きたら何か始めてみよう
だから今日はいつもより早く眠りにつこう
だけど眠れなくて朝日が昇るんだ
明日はもっと自分が嫌いになるのかなぁ

辛辣で風刺的なとも取れる歌詞は続く、しかし、その詩をおおう感覚には若者の取り巻く状況を赤裸々に訴えたストレートな言葉がちりばめられている。
「明日に住み着いている幻覚=希望」「未来なんて来なけりゃ…」「今日も僕は変われないまま」「眠れなくて朝日が昇るんだ」不安定な自分を表す言葉の羅列、誰もが経験する焦燥感からくる非生産性。そんな時期をよほどの順風に乗り続ける人を除けば、誰もが経験しているに違いない。少なくとも私は経験している。

ところが、子供たちは、そんな時期を通り過ぎた大人たちによって、「理想化された歩むべき道を踏み外すことなく、より良い歩みを歩ませよう」と、子供たちにとっては場違いな健全性へと誘われ、いきなり「夢」や「希望」を突きつけて攻めてくる。「夢を持とう」「夜の向こうには、輝く明日が待っている」「希望に向かって歩むんだ」そういう言葉は多くの子供にとって絵空事のように感じられるものとなっているのかもしれない。そうしたパターン化された「夢」や「希望」を持てないことが何か悪いことのように大人は子供に接していないだろうか・・・。

私はそれでも親であり教育を生業とするものとして、彼らに夢や希望を語り続ける使命を持っている。ただ、まるで夢をかなえた人間が成功体験のみに裏打ちされた経験で真正面から子供たちにあたるのではなく、もしかしたら一つ二つ三つと階段を降り、自らの魂のやり場のなかった時期を想いながら、先ずは子供たちと共感する部分を見つけることから教育がスタートしていくことを忘れないようにと思っている。子供たちの感覚は確実に変わっているのだ。だからこそ、教える側も時代の生んだ歪みを理解しながら、それでもまっすぐに子供たちを導いていきたいと活動を続けるのみ・・・

sekaowa